山岳事故の法的責任
山岳事故の法的責任、
という事案には、民刑問わず幾つか関与してきました。
このテーマはあまりに重くて、とても語り尽くせるようなものでは、ありません。
ただ一ついうとすれば、法的責任っていうのは、山岳事故が当事者にもたらす大きな責任の一つに過ぎない、ということです。
法的責任ってのは、必ず、いつかは終わります。
民事ではカネを払い終われば責任を果たしたことになるし、
刑事では(刑事責任が認められた場合には)、刑に服すれば責任を果たしたことになります。
ですが、刑事、民事の責任を果たしたからと言って、じゃあ無罪放免で、事故が起こる前の人生に戻れるのか、というとそうではないわけです。
遭難者は、決して、事故が起こる前には戻れません。遭難者のご家族もです。
なので、法的責任が果たされたとしても、倫理的道義的責任という、取ろうとしてもとても取り切れない責任は、残るわけです。
それこそが、生き残ってしまった側にも、またご遺族にも、最大の、人生の難題を与えるものです。
この、倫理的道義的責任、つまり、
一人の人を死なせてしまった、その家族から父を/母を/息子を/娘を奪ってしまった、再起不能にしてしまった、深い傷を負わせてしまった、云々という責任、
は、決して取り切れないものです。ただ、決してこれから逃れることはできないと知りながら、なお、その責任に真摯に向き合おうとする事故当事者たる登山者の姿は、時に、感銘を受けるほど人間らしいものでもあります。
そして、結局、ひとは、責任を取りにいかなければ、成長などしないものです。
だからこそ、若い岳人には、「なんかあったら責任が取れないから」と、リーダーをしり込みするのではなく、
むしろ、何かあったら俺が全部責任を取るのだ、というくらいの覚悟で、リーダーとして、山行に臨んでもらいたい、と思います。
なんかあったら、どうせ、責任なんか取り切れやしません。民事刑事の責任など、人間が負う責任の、氷山の一角に過ぎないのです。
まあ、これは山岳事故に限らず、交通事故でも、何でも、おなじですが。