遭難の原因とトラブルの原因
先日ある方に、山で、これは死ぬぞ、というような目に遭ったことはありますか、と聞かれ、うーん、
まあ、人並みに?滑落したこともあれば、
人並みに?下山遅れをしたこともあるなあ、といろいろ思い起こしたのですが、一番、死に近かったのは、私ではなくて相方がめっちゃ激しく落ちたときでした。
この時我々はある沢を遡行しており、最後の核心の大滝に差し掛かっていました。私は、この滝はノーザイルで登れると思った。相方もそう思ったのでしょう。二人とも特に言葉を交わすこともなくそれぞれ滝に取り付きました。私が先行です。
正直相方の方が、私より登るのは全然、うまい。だから私は、自分が登れるところで相方が落ちるなんて、夢にも思いませんでした。ところが落ちたんです。
私は先に落ち口につき、振り返って相方(姿は見えていないが、滝の下部に向かって)に、おーい抜けたぞ、と叫びました。ところが、相方が上がってこない。1分経ち、3分経っても、上がってこない。私は不安になり、様子を見に行こうと下降を開始しました。そして10mほどくだったところで「落ちた!ザイルをくれ!」という、相方の叫び声を聞いたのです。
この時の動揺は言葉に表すこともできません。30mは優に超える大滝です。落ちたのなら即死、良くて骨折。とうとうやってしまったか、と思いました。
幸い、相方は奇跡的にグランフォールしておらず、全身打撲でうめいていましたが骨も折っておらず、なんとか自力で下山できたんです。
この時、私はめっちゃくちゃ反省しました。
もし、これが会の若者を連れていく山行であったなら、私は必ず大滝の前で、・ザイルはいるか(要らないと言っても出しますが・・・)。・リードするか。・リードするならどういうタクティクスで登るか。・リードしないなら、私がリードするが、私はこういうタクティクスで行くから、ビレイを頼む。などなどと、きちんと話し合っていたでしょう。
そしてそれをしていれば、おそらくこの事故は起きていなかった。相方が身内だという安心感や、まあ、相方は落ちないだろうという認識の甘さ。そして、
大した滝ではない。これくらい、いける。言葉を交わす必要もない。という、コミュニケーションの不足、ひいては確認の不足が招いた事故でした。
数多くの事故を見てきましたが、その大半は、コミュニケーションの不足と、山に対する見積もりの甘さ、つまり雪崩やら落石やら、増水やら低温やら、下山に要する時間やら、それらもろもろを「甘く見積もった」結果が招いています。これは間違いないと思う。
ところでこれって、事件の大半に共通する原因でもあるんです。コミュニケーションの不足と、認識の甘さ。あるいは、甘え。
多くのご夫婦の、あるいは会社の、あるいはご家族の紛争は、この二つが原因で起こります。ちょっとしたコミュニケーションの不足。ちょっとした、認識の甘さ。これくらい大したことないだろ、という勝手な思い込み、などなど。
だから、ヤマであろうとなかろうと、言葉を惜しんではいけないのです。そして、リスクを甘く見積もらず、アンダーに、アンダーに行動していくほかない。それが自分を守ることでありまた自分の愛するものを守ること、そのものなのです。
慣れれば慣れるほど、慢心は出ます。これくらい、と思ってしまう。ヤマでも、事件処理でも、人生でも同じことです。
常に、細心の注意を。それはとっても難しいことですし、人間はだれしもミスがあるものです。ただ、「人間だもの」というのは、いざという時の言い訳には、なりません。