雨宮まみ「女子をこじらせて」 読了
AVライター雨宮まみさんの「女子をこじらせて」を読みました。とても興味深い著作でした。
あーわかるー、と共感できるところもあり(特に仕事上で女性であることを憎むところなど)、全くわからない、ぽかーん、というところもありました。
まあ、わたしゃ、ここまで女子をこじらせてなかったよね…と、読後率直に思ったのですが、
よく考えると、自分は、こじらせるほどの「女子」さえなかった、というのが本当のところなのかもしれません。
雨宮さんは、中学生くらいの頃から、女子である自分に自信がなく、女子という性をにくみ、しかし、それでもきれいになりたい、素敵女子になりたい、モテたい、セックスしたい、という欲望があったことを率直に書いておられます。
一方、わたしゃ、中学高校を通じて、「モテたい」とか全く思いませんでした。大学を出るまでは、「性」というものをほとんど意識せず、ぼーっと生きてきた、といってもいいでしょう。とはいえもちろん大学時代は彼氏もいましたし、社会人になるまでにはそれなりの性経験もありましたけれども。
私が女性という自分のジェンダーを激しく憎むようになったのはむしろ弁護士になってから、法曹界における圧倒的な男性優位、この社会において女性であるということがここまでハンディなのか、と痛感した、24歳以降のことでした。自分の性を憎み始めて、初めて自分が女であることに気が付いた、といってもいいかもしれない。
女性であることに四苦八苦しながら、しかしさりとて女を憎んでもオトコになれるわけでもなく、それなりに消耗していたのですが、
なんかもうどうでもええわ、と思えるようになったのは、35歳を過ぎてからです。
特に何か象徴的な出来事があったわけでもない。あるときから、女である自分を、まあ好きになるとまではいかなくても、許せるようになったのですね。それは、弁護士稼業も10年を過ぎて、ある程度仕事にも自分にも自信がついてきたためかもしれません。あるいは、もう「若い女」ではなくて「おばさん」になり、なんというか、「女度」が落ちたからかもしれません。そんなこんなで今に至ります。
ただ、今でも、生まれ変わったらまた女に生まれたいとは思いません。今生は女に生まれてしまったし、それはもう、なんというか諦めたけれども、もし次の人生があるとしたら、女はもう勘弁してほしいと思います。
ま、これも、隣の芝生が青いだけかもしれません。男性諸氏には男性諸氏なりのご苦労があって、それは女の苦労と多分変わりはないのでしょう。でもまあ、女はもういいです。おなかいっぱいです。
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