2024年02月15日

裁判所のバレンタインデー

昨日2月14日の朝、私はとある離婚調停のため、東京家庭裁判所に赴いて、家裁のエレベーターに乗りました。
すると、途中の階でエレベーターが止まり、弁当を満載に積んだ荷台を押したオバチャンが乗ってきました。東京家裁では、昼食に弁当を食べたいという職員の希望を取りまとめて、お弁当を外部から手配しているのです。その弁当の配達のオバチャンでした。
荷台をみてみると、弁当箱の真ん中に、ハート型のコロッケが載っています。
そっかそっか、今日って、バレンタインだったっけ、と思い出し、私は思わず、そのオバチャンに、「コロッケ、今日はハート形なんですね!かわいいですね」と声をかけました。
すると、オバチャン、満面の笑みで、
「そうなのよ!今日、バレンタインでしょ?ほら、ここにハートのチョコも入れたの。皆さんに喜んでもらえたらいいなと思って!」と、これがコロッケで、これがチョコで‥‥と、弁当の中身を説明してくれました。
 そうこうする間に、エレベーターはオバチャンが押した階で止まり、オバチャンは、職員さんたちに弁当を配達すべく、意気揚々と、荷台を引いて降りていきました。
私が見る限り、東京家裁は、数多くある裁判所の中でも、明らかに一、二を争う多忙な裁判所です。皆さん、昼ご飯をどこかに食べに行く時間もなく、席でささっと弁当を食べ、すぐに仕事に取り掛かっておられます。事案も、夫婦のいがみ合いや、不貞など、愛憎渦巻くドロドロものばかりで、これは、こういうのに慣れている弁護士でも、だいぶ精神的に疲弊します。東京家裁の職員の皆さんのご苦労は、さぞかしと思いやられます。
皆さん、バレンタインデーに、弁当屋のオバチャンの愛情たっぷりの、ハート形のコロッケを召しあがったでしょうか。弁当を見て、すこしでもほっこりした気持ちになられて、意欲も新たに、事件に取り組んでいただけたらいいなと、そんなことを思いました。
  


2024年02月02日

「方言禁止」なるお笑い番組について

お笑い番組で、地方出身の芸人に「方言禁止」にチャレンジさせる、っつう番組が差別かどうか、という話題で、私は、北海道から東京に来た13歳の時を思いだしました。


当時私は、自分が訛っているとは思っていなかったのですが、東京人からすると、やはり訛っていたようです。


例えば、椅子、の発音が違ったようで、同級生は私に敢えて、「これは何?」と聞き、私が「椅子」と答えると、どっと笑うのです。
また、「7」の発音が違ったようで、私に、「1,2,3,4,5,6」の次は?と聞き、私が「7」というと、どっと笑うのです。そして、いなかっぺ、いなかっぺ、とはやし立て、消しゴムや、鉛筆などを投げつける。ということが、多くありました。


だから私は、教室で方言を出したくなかったのです。でも、自分の発音のどこが、皆と違うのか、わからなかった。皆と同じになりたかった。切実になりたかったのだが、自分のどこが人と違うのかが、判らなかったんです。


そんなとき、私は一人でふらっと、井の頭公園動物園に行って、サル山を見ました。そこでは、子ザルたちが、一匹の子ザルをいじめていた。サルたちは、その一匹を、池に突き落とし、這い上がろうとすると妨害し、這い上がったらまた池に突き落とそうと追い回していました。

それを見て、私は、はっと気が付いたのです。
サルたちにはこの子ざるが、何か、自分たちと違うところがある、思って苛めているのだろうが、人間から見ると、別にこの子サルには、ほかの子ザルと、何ら違いはない。たとえ違いがあるとしても、それは些細なこと、さる山という、狭いコミュニティの中での違いでしかない。
広い世界から見ればそんな違いは何でもない。みんな等しく、サルである。そして、その些細な違いについて、虐められている子サルには、何の非もない。
それと同じように、たとえ、私の発音が多少違っても、私が多少ほかの人より痩せていても、見ているテレビや読んでいる本が違っても、多少考え方が違っていても、そんなのはおそらく、広い世界から見たらほぼどうでもいい違いなのだ。
そして、私が、そのほぼどうでもよい違いを嘲笑されたとしても、それは嘲笑する方が悪いのだ。私には一切非がない。だから堂々としていればいいのだ。私は既に、十分皆と同じなんだ。ひがむことも否定すべき点も、ない。

私は、そう思いました。
以来、私は、方言をからかわれることや、「へん」とか「おかしい」とか言われることが一切気にならなくなりました。
この時から、私は、自分はほかの人と、一切違いはない、全く標準の人間である、と確信しています。自分に個性なんかあってたまるか、個性なんかくそくらえ。今でもそう思っています。我々は、みんな等しく、サルなのです。


なので、本題に戻りますと、この「方言禁止」なる番組には、差別という要素もあろうが、本質的には、多数派が、ほぼどうでもいい些細な違いをあげつらって、少数派を虐めて楽しむ、という図、
どこの社会でもよく見られる図なのだろうと思います。

しかし、決して褒められた図ではありません。こういうお笑いしかできないお笑い芸人というのに、どれだけ存在意義があるのでしょう。  


2024年01月18日

入籍するかしないかを悩む前に、入籍とはどういうことかを理解する。

先日、ある俳優さんと女優さんとの間にお子さんができた、二人は当面は入籍の予定はない、というニュースがありました。
まずは、大変おめでたい、素晴らしいことです。入籍しない。というのも、お二人がいろいろ考えたうえでのことなのでしょう。

一方、昨年には、「おひとりさま」を唱え、「結婚なんて性的自由を失う契約をする意味が分からない。」と公言していたある女性の学者が、実は婚姻していた、というニュースもありました。

このように、婚姻という道を選ぶか選ばないか、どうとらえるか、というのは人それぞれです。また、交際しているひとがいる、好きな人がいる、婚姻しようかどうか迷っている。。。というひとは、割と多いようですが、

そもそも、婚姻=入籍する、とはどういうことか。を、まず理解されたほうがいいと思います。

我が国の民法は、婚姻した夫婦を守っています。
だからこそ、民法は、婚姻を破壊したものには、損害賠償という罰を与えるわけです。
具体的には、
・婚姻した夫婦は、一方が亡くなれば、財産を相続することができます。
・婚姻した夫婦に子供が生まれれば、夫婦は自動的に親権者になります。
・婚姻した夫婦は、互いに協力し助け合う義務を負います。貞操義務も負います。
・婚姻中に夫婦どちらかが得た財産は、基本的には、共有財産とみなされます。
などなど。。。。。です。

また、わが国が法をもって婚姻した夫婦を守っていることから、たとえば、
・病院などで、面会謝絶でも、夫婦であれば面会できることがある。
・手術の同意書なども、夫婦や親子などの関係のある人間でないとサインができない。
・死後、葬儀埋葬なども、配偶者が喪主になるし、また配偶者の意向が優先される。

わけです。

つまり、「婚姻」というのは、このような、法律上の義務(貞操義務など)と権利(相続など財産上の権利とか)と、それに付随する事実上のメリット(病院などでのメリット)とデメリットがセットになったパッケージなのです。

このパッケージを利用します、という決断、そして意思表示が、婚姻、すなわち入籍です。

そして、このパッケージは割と便利なものです。私も現在このパッケージを利用していますが、まあ、便利だなと思います。

なので、多くのカップルはこれを使って生活し、子どもを育てます。
一方、このパッケージには、義務とか、事実上のめんどくさいことも伴います。例えば、義理の親との関係とか、どちらかが、姓を変えなければならない、などですね。

そういうのが、嫌だ、便利かもしれないけど、このパッケージに伴うデメリットの方がもっと嫌だ、という方は、このパッケージを使う必要はありません。現に婚姻せずに暮らしているカップルはたくさんいます。

上述した学者の先生は、結婚なんて無用だ、と言っていたのに結婚していたという矛盾を突かれたときに、お相手の老後や死去にともなういろいろな面倒を乗り越えるために、「婚姻制度を逆手にとった」のだなどと言っておりますが、別にこれは逆手でも何でもありません。超、順手です。

お相手といえども、他人です。他人が、他人の老後の世話だの、死後の財産の管理だの処分だのをすることが、そう簡単にできるはずがありません。

そういういろいろな事実上の面倒を、ある程度クリアしてくれ、割と簡単にやらせてくれる。その利点は、婚姻というパッケージに最初から含まれています。


入籍するかしないかとか、そういうあたりでお悩みの方は、まず、婚姻というパッケージに含まれるメリット、デメリットをよく押さえて、それから検討されてください。もちろん、婚姻において愛情は大事です。が、愛情は、このパッケージを利用するために必要不可欠というわけではありませんし、愛情があるならこのパッケージを利用しなければならないということでもありません。

それと、これとは、別のことです。






  


2024年01月16日

二世帯住宅のトラブル

二世帯住宅の絡む家族間トラブルというのは、実はめちゃめちゃ多いものです。常に数件は手持ちがあります。
当たり前ですが、皆さん、二世帯住宅を建てるときは、親子で楽しく仲良く生活できると確信しているのです。ところが、これがうまくいかなくなると、その反動で、憎しみはとても強くなります。

親の名義の土地に、子が二世帯住宅を建てる。というのがよくある話で、この親子が実親子関係ならまだいいのですが、
①親名義の土地に、娘の旦那がローンを組る。となると、これはトラブルになりがちです。
また、
②親名義の土地を、息子が譲り受ける代わりに、二世帯住宅を建て、自分の家族と親と同居する。
というパターンで、嫁さんと親が仲が悪くなると、これはまたトラブルになります。
さらに、
③親名義の土地に、娘の旦那が家を建てたのだが、その費用を親が立て替えている。
となると、これも、大変なトラブルのもとです。

なので、二世帯住宅を建てることは、基本的にはお勧めできることではありません。
ただ、どうしても建てるときには、基本的に、
・ローンを組まない(組んでしまうと、いざ、親子間の仲が悪くなったときに、逃げられません)。
・金を借りない(借りてしまうと、もめごとの種がさらに増えます)

ことをお勧めします。
親としては、子どもと一緒に住みたいし、子どもとしても、親の土地に家を建てられるのは、便利なことです。

ただ、便利さには、当然ながら、それに伴うリスクもあります。

十分気を付けていただきたいと思います。  


2023年12月20日

控訴審から受任する、ということ。

一審で他の先生が担当されて負けた事件を控訴審から受けて逆転して勝つと、
それは、お客さんはめちゃくちゃ喜んでくださいます。


しかし、だからと言って一審で負けた先生がまるでダメな先生だったということになるかというと、そうではありません。


要は、控訴審から担当すると、「一審で、主張Aは通らなかったのだな、この証拠がこう判断されたのだな、だとしたら、控訴審では主張Bに切り替えよう、この証拠はこれで補強しよう」などと、一審での経験を踏まえて、次の方法を考えられるわけで、
その土台となる、「あ、主張Aは、通らないんだ」ってのは、一審を戦っているときには無い情報なわけです。

まあ、一審裁判所が示唆してくれることも多く、それに代理人が気が付くか、というのは一つの問題ではあります。また、そもそも主張Aは、無理筋じゃねえ?という時もあることはあります。

が、ともかく、主張Aはだめだ、という重要な情報が、一審にはなく、控訴審には、ある。

なので、あくまでも一審での敗訴あっての控訴審なので、たとえ控訴審で勝ったとしても、控訴審で逆転したセンセイはエラく、一審でのセンセイがダメである。ということには、ならん。と、私は思います。


クライミングで言うと、要は、一審勝訴ってのはオンサイト(壁を、一発目のトライで登りきること)なのだが、
控訴審はオンサイトではないんです。

控訴審って、このルートは、今の実力(=手持ちの証拠)ではアカンな、とか、このムーブではこの壁は突破できないな、と、判ってからのトライなんです。そりゃ、成功確率も上がるわけですよ。


ただ、これもよくあることなんですが、一回目のトライでダメだった=一審で負けたとき、登っているほうからすると、もう、ほかのルートやほかの方法が思いつきにくくなっています。頭がもう、それ以外のルートを考えられなくなっている。

なので、次のトライに際して、「この主張、あかんのだな、別の主張、何か立たないかな?あ、そうだ、こういう法的構成もあるか!」などと、なかなか思えず、その無理なムーブのままでもう一度壁にトライ=控訴審に突き進み、壁の中でじたばたし、控訴審でもあえなく負けてしまう。ということも、ないわけではありません。

クライミングでこれを続けると腕が疲れ切って登れなくなるんですが、それと同じように、控訴審でも負けると、弁護士はメンタルをやられます。

なので、まあ、一審と二審で弁護士を変える、というのも、一つの選択ではあります。少なくとも控訴審から受任した弁護士は、メンタル、ぴんぴんしてますからね。負けてないから当たり前なんですが。


でもカネはかかるし、必ずしも弁護士を変えたら控訴審で勝てるというわけでもない。当たり前だが、次の弁護士がもっとクライミングが下手だったら、そりゃ、負けるわけですよね。

なので、基本的には、やはり一審で勝つのが一番いいんです、当たり前のことですが。クライミングと一緒で、オンサイトが一番いい。


そのためには、これもクライミングと同じで、一回目のトライをする前に、綿密に壁=資料を読んでルート(法律構成)を探し、最適なルート(最適な法的構成)を見つけ出し、それをまた入念に研究して、どんなムーブ(証拠)でそのルートを突破するか、というのを考えなくてはならないのですが、


が、まあ、現実にはそうもいかんわけです。アルパインクライミングでも、日暮れが迫って十分な時間が取れなかったり、風が寒くて長くそこにいられなったり、そこからみているだけではホールドや落ち口がわからなかったりするのと同じように、
訴訟でも、そんなに時間も金もかけられず、万全の準備ができないままに一審に臨むほかなくなる、ということもあるわけです。


だが、なんにせよ、大事なのはトライで全力を尽くすことで、そして、結果として控訴審で勝ったとしても、決してうぬぼれないことです。控訴審で勝った弁護士が、一審のときの先生をバカにするってのは、下の下です(何かを見ている)。

控訴審で勝ったとしても、それは、一審での敗訴あってこその勝訴なんです。一審を戦い抜いた代理人弁護士に、敬意を。  


2023年12月14日

裁判官の「心証」

弁護士からすると、裁判官というのは本当に難物です。

なぜなら、裁判官が何を考え、何を重視し、どう判断するのか、というのは、弁護士にとって、事件の勝敗を決する重要事項であるにもかかわらず、
それを推し量ることが甚だ難しいからです。


我々からすると、できるだけ、「自分の考え方」=「裁判所の考え方」であってほしいわけです。事件の筋についても、証拠の評価についても、訴訟の進め方についても、ともかく、自分の考え方と裁判所の考え方が、あっていてほしい。
ここでいう「考え方」というのは、「心証」ともいいます。裁判所の、その時点における、事件に対する「まあ、こうだろうなあ」という評価ですね。

なので、この事件は勝てるだろうとか、敗けるだろうとか、これくらいが落としどころだろうとか、この証言は嘘だろうとか、
まあ、そういういろいろな点に関する自分の心証が、裁判所の心証と一緒だったりするととてもうれしい。自分の見立てがあってたってことになりますからね。

逆に、裁判所から開示された心証が、自分の心証と違ったりすると、がっかりし、何が足りなかったんだろう、どうやったらこの心証をもっと自分よりに寄せられるだろうか。。。。。。などと悩むわけです。

先日、もう長いこと闘っている訴訟で、私の相手方が、ある手を打ってきました。
私からすると、もう、今までこんなに長いことやってきて、いまさらこんな手を打ってくるなんて、なんというか趣味悪いというか、いま、このタイミングで、その手、使う??それって、センス悪くない???

という手で、

まあ、相手がどういう手を使おうとそれが法律の範囲内である限りこちらは文句を言えないわけですけれども、甚だ不愉快だなあ、という手だったわけです。

そうやってもやもやしていたところ、その事件の担当裁判官がお電話くださいまして、「こういう手が出てきましたけども、どうします?」と聞いてくださったので、おもわず、いや、このタイミングでこんな手を打ってくるなんて、なんというか、何考えてるんですかねえ。。。。

と、ちょっと愚痴めいたことを申し上げたところ、裁判官が、

「ま、この事案で、このタイミングで、この手を打ってくるっていうのは、ダサいですよね」

とさらっとおっしゃってくれて、思わず笑ってしまいました。

こんなことでも、裁判所と自分の心証があまり違っていなかったことが判って、ちょっと嬉しかったのです。ああ、やっぱり、こういう手段について快く思ってはいらっしゃらないんだな。と。


  


2023年12月01日

「人権賞」

とある「人権」団体に、とある東京の弁護士会が「人権賞」を授与する、ということで、いま、この業界ちょっと話題になっています。

当該弁護士会(お断りしておきますが、私は第一東京弁護士会に所属しており、当該弁護士会ではありません)によると、

当該「人権」団体が、「これまで零れ落ちていた性暴力被害者の人権のために活動し、被害者の性的自己決定権を中心に据えた法改正を、被害当事者自身の活動によって実現したという点は、●●弁護士会人権賞の受賞に相応しい」もの、なのだそうです。

ただ、まあ、この団体、あの悪名高い「草津町性被害?事件」において、性被害が実存したと主張し、草津町はセカンドレイプの町だ!!と盛んにひろめていた団体です。

うーん。

この「草津町性被害?事件」は、

当時、70を過ぎておられた町長さんが、50を過ぎていた町議さんを、朝から、町長室でレイプ?した??

という告発からはじまったもので、

まあこんなことをいうと年齢差別だ!とかいわれるのかもしれませんが、普通に考えて、え、それ、ほんと?と不思議に思うようなお話ではありました。

そして、町議さんが警察に告訴するより早く、町長さんの方が名誉棄損で警察に告訴し、
その結果、刑事では、
①町議さんからの、強制わいせつ罪での告発は不起訴になり、
②町長さんのほうの告訴は、名誉棄損と虚偽告訴罪で検察によって立件され、現在、刑事裁判になっており、

また、民事では、
③町長さんが町議さんにたいしてかけた名誉棄損に関する仮処分は、すでに裁判所によって認められています。

まあ、現在係争中なのでなんともいえませんが、

だからこそ、うむ、まだ、係争中なのに、なぜ敢えてこの団体に「人権賞」なのであるか。。。と思わざるを得ません。私はね。個人の意見ですよ。それに自分の所属会じゃないし、まあ、ひとさまの会のことなんで、どうでもいいっちゃあ、どうでもいいですが、

この受賞に対し、私の所属会にいらっしゃる、とある高名な女性弁護士が、
「この団体が、「人権」の重みを意識できるか、今回の受賞を機にどうしていくのかが注目される」とおっしゃっており、

さすがのご発言と感じ入った次第です。

まあ、ひとさまの会のことですからね。どうでもいいっちゃあ、どうでもいいのですが。






  


2023年11月24日

キノコ狩り

ものすごくどうでもいいことですが、私は11月の週末は、ほとんどすべて、キノコ狩りに費やします。
狙いは、主になめこです。


普通のクライマーは、11月のこの時期、つまり沢登には遅く雪山には早いこの時期を、フリークライミングに費やすのでしょうが、私はなめこに費やすんです。道理で、クライミングがへたくそなままなわけだ、と自分でも思います。

ですが、やはり、キノコ狩りには、あらがえない魅力があります。

やっぱり人間、狩猟採集で暮らしていた古来から、「採集が楽しい」ものなのだろうと思います。特に、採取する対象が美しいものであるとなおさらです。

私は山菜もとりますし、ほかのキノコもとりますが、特に天然のなめこというのは、本当に目を見張るほど美しいものです。

そしてもうひとつ、この時期のぶな林というのは、本当に美しい。
葉がほとんど落ち、わずかに残った紅葉がぶなの白い肌に生える山は静けさに満ちていて、何物にも代えがたい美しさがあります。

その中をあてどなく歩いて、輝くような天然のなめこを発見するときは、充実の一瞬です。

まあ、お前腐ってもクライマーならこの時期ちゃんと岩に行けよ、と言われるのもごもっともなのですが。。。。

でも、なめこはね。格別です。格別だと思います。






  


2023年11月09日

頂き女子なのか、パパ活なのか。

頂き女子というのか、パパ活というのか、わかりませんが、まあ、この二つに特に定義があるわけではないので、
恐らくどちらでも、大きく間違ってはいないのでしょうが、

なんにせよ、男性に会って、その好意を知りながら(悪く言えばその好意に付け込んで。よく言えばその好意に甘えて、というのか)、
思わせぶりな言動をして金員をもらい続けていた、

という女性たちが、男性側から、

訴えられた、

とか、

訴えられそう。

とか言うご相談が、ここのところ急に、増えました。報道の影響でしょうかね。

多くの女性たちは、特に罪悪感などを持つこともなく、男性と会って、食事して、カネをもらっていた、、、ようで、

「なんでこんなことになっちゃったのかわからない」、などとおっしゃて、泣かれるのですが、

まあ、それはひとことでいうと、カネ、もらっちゃったからですよね。

おじさんと一回会って、飯食って、15万円とか、それって何の対価ですか、っていうことになるわけで、
これであなたがマックやコンビニでバイトして15万円もらったんならだれも何の文句も言わないでしょうけれど、
飯おごってもらってカネ貰うっていうのはやはり尋常ではないわけで、払う方の男性には当然、何らかの思い込みとか、期待とか好意とかいろいろあるわけです。女性側として、それを知りつつ、かつ、そういう思いを持たせつつ、それを維持させつつ、会い続け、カネをもらい続ける。

というのは、これが刑法上の詐欺になるとか、民法上の錯誤になるとか、そういうところまでいかなくても、まあ、道徳上よろしくないことであることはまちがいありません。

訴えられて、きちんと反論して争えば、女性側が勝てるだろうな、というケースも多々あります。これはちょっと男性側が早とちりしすぎだろう、というケースもあります。

ただ、裁判で、争えば勝てるかもしれないけれども、そういう道徳的にはいまいちなことをしてしまったがために、訴えられるに至った、ということは、理解していただきたいな、と、時々思います。

こういうご相談に見える女性は当然若い方が多いわけです。若いからこそ、いま、その、「道徳的にはいまいちなことをしてしまった」ということを、よく、ご理解いただければいいな。と、おもうのです。

  


2023年10月25日

ヤマでスカートをはくことの是非をめぐる論説について

女優さん?だかタレントさんが、ロングスカートをはいて山に登ったとか、
それが、ヤマをなめていると批判されたとか、
いやそれはトレイルスカートというものだ、トレイルスカートも知らないくせに批判なんてするなボケとか、
そういう、ネット上での話題を見て、つくづくと考えてみました。


別にヤマに登るのに決まった服装があるわけではありません。
なるべく安全で快適な服装で登れば、それでいいと思います。


私はヤマにスカートをはいて登ったことはありませんが、この話を聞いて、ヤマでスカートをはいたらどうなるか、ということをつらつらと考えてみましたが、結論としては、自分がヤマでロングスカートをはくかというと絶対にはかないだろうと思います。


前提として、岩や沢や雪山で、ロングスカートはあり得ない(ハーネスがはけない以上当然)ので、夏季の一般縦走路で考えてみます。

ひとつは、ロングスカートだと、fある程度の斜度の登降のときに裾を踏んで転倒する危険があるし、すれ違いの時にはすれ違う相手にも迷惑であるし、
また、足元が見えにくくなり転倒の危険もある。

また、何か不慮の事態が発生して、
いざ、ビバークって時にスカートだと、どこにでも勝手に寝っ転がれるって訳にもいかなさそうだし、だいたい、寒そうです。

何よりも、落ちたときにどうなるか、というと、まあ2メートルでもゴロゴロと落ちたら間違いなくスカートはまくれ上がってパンツ丸出しになるだろうし、
そうなると、それで動けない状態になったら、パンツ丸出しのままで救助を待つんか。。。ということになり、いや、それはちょっと、ヤマヤの落ち方としてどうなのかと思うのであります。

ちょっと、それはさすがにみっともないかなと。救助隊もたじたじでしょう。

まあ、自分は絶対急な登下降はしないし、転倒もしないし、落ちないし、ビバークもしない!

だからどうしてもスカートで登る!

というならそれはそれで、どうぞ、という話だと思います。

しかし、人間、意外とどこでも落ちられるもんですからね。高尾山でさえ、落ちる人はいるもんで。そういう意識は、持っておいた方がいいかなと。


なお、ヤマで、ロングではなく、腰巻みたいな、膝上の短いスカートをはいておられる女性もたまにいます。さすがにヤマで短いスカートで、膝腿むき出しというのはまずいと思われるのか、
そういう方はタイツをはいておられます。

しかし、それなら別に、最初からズボンはけば良くないか???と思うのです。
つまり、腰巻+タイツというチョイスは、ズボンというチョイスに対して何ら優位性を持たないとおもうのです。だったらあっさりズボンにしたほうが、話が早いと思うのです。


つまり、ヤマでの服装として、敢えてスカートを選ぶ理由は、機能面や安全面では思い当たりません。履いても別にいいだろうとは思いますが、敢えてそれを選ぶ理由はない。

まあ、スカートというものは、本来的には女性性をアピールするものですから、何らかの形で女性性をアピールしたい方には向くのかもしれません。

しかし、です。わざわざ、ヤマで、女性性をアピールする意味がありますかね。

いや、アピールすることが、悪いとは言いません。でも、そういうことは、別に、命の危険のない、下界で、しゃなりしゃなりとおやりになった方が良いのではないかと思います。下界の方がよほど、そのようなアピールに、ふさわしい場ではないでしょうか。

というわけで、わたしゃ山でスカートをはくことは、自分は、一生ないだろうと思います。


ただ、私にあったことのある方はご存じかも知れないが、わたしゃ下界ではワンピースを着ます。それは、ずばり、楽だからです。

あれは、頭からかぶれば、三秒で、着替えが完結するという素晴らしいもので、何も考えなくていいのです。私は頭の容量が小さいので、着替えに回す分の思考回路は、ありません。

ただ、それは、下界だからです。その下界でさえ、スカートをはいて駅の階段を二段とばしで駆け上がろうとすると、難があります。

ましてや、ヤマにおいてをや。です。ねえ。